テラダのブログ

どこにでもいるふつうの大学生がちょっとカッコつけて書くブログ

#10 Stay home新入生の葛藤〜履修登録を終えて〜


 
 前期授業がオンライン授業になることが決まり、ようやく僕の大学生生活が始まろうとしている。そんな僕にある試練が降りかかった、そう履修登録である。
 
 
膨大な授業から好きな授業をとっていいという素晴らしいシステム。しかし自由が故に難しい。大学から簡単な解説動画が送られ、履修要項(200ページ弱)を片手にその動画を2回見て、やっとこさ履修登録が終わった(正確にはまだ申し込み段階である)
 
 
本来なら、4月のはじめに新入生オリエンテーションがあって、そこで大学生活の情報と同じ学科の友達をゲットし、サークルに入って先輩から履修のコツを聞くという重要流れがあるのだが、それが全部ないので、相談相手が1人もいないのだ。正しい答えが返ってこなくても相談をしてみたいときがある。
 
 
ここまで友達作りができないと、SNSで友達作り、いわゆる#春から〇〇大が理に適った方法なんじゃないかと思えてきた。大学の有志の団体がオンラインで新入生の交流の場を作っているらしいし、LINEのオープンチャットもあるらしい。ただ僕は古臭いタイプの人間なので、どうしてもSNS上で友達を作ることには抵抗がある。というよりは僕は生身の出会いのビビッ!を強く信じている。
 
 
まず僕は人間関係は狭く深く型である。だからSNSで多数の人と関わりを持つこと自体が向いていない。そして僕は陰キャである。もし知り合った人がゴリゴリの陽キャだった場合、リスクが大きすぎるのだ。話のできる陽キャと話のできない陽キャ陰キャの見分ける時にこそ生身が持つ情報が必要だと思う。服装、髪型、アクセサリーの有無、声量、「ねぇ」と最初に話しかける時の言い方、姿勢、匂いetc…たった数秒の情報でこの人とイケるかどうかは判断できる。そして精度にはある程度の自信がある。
 
 
それがSNSの場合、判断できる情報がアイコンぐらいしかない。非常にリスキーだ。もしSNSで同じ学科の人と知り合い、「一緒にロシア語とろうよ」なんて言われるかもしれない。そこで僕が仲間がいる嬉しさに思考が停止し、微塵の興味のないロシア語とってしまい、蓋を開けてみたら誘ってきた彼は早々に単位を放棄するかもしれないし、使えそうな陰キャ釣れたぜと言ってた僕をいいように使って捨てるかもしれない。ゴリゴリの陰キャかもしれないし、ハロプロオタかもしれない。

 

 

こういったリスクを考えると、どうしても#春から〇〇大と呟く気にはなれない。きっと僕には向いてないからやらない方がいい。ひとりでなんとかする覚悟を決めたほうがいい!
 
 
 
それにしても火曜日の授業1限と4限でとったの失敗だったかなぁ…
 

#9 政治とSNS

政治は安易に触れてはいけないテーマだ。ただこのご時世、タイムラインに流れてくる賛否の声を聞いているだけではもどかしさを感じる。せっかくブログを立ち上げたのだから18歳の少年の考えを投稿してみようと思う。
 
 
僕にとって政治とTwitterは密接だ。学校で友達と真面目に政治について議論することは少ない。僕は政治の話が最も活発にされる場所はTwitterだという印象を持っている。そして政治とTwitterが密接なこの状況が良くないと考えるようになった。
 
 
つい先日、安倍総理が「うちで踊ろう」の動画を投稿した。いろんな批判があった、もう説明不要だろう。僕は「こんな時期にわざわざくつろいでいる動画を投稿する必要はない」と感じた。音楽の政治利用だとか著作権だとかを言う気もないし、休むなとも言わないが、今、総理が投稿することではないと思った。
 
 
この投稿と投稿の対するコメントに政治とTwitterが密接であることの気持ち悪さが詰まっていると思う。
 
 
まず安倍政権反対派の町山智浩さんのコメントがあり多くのいいねがついている。そして町山さんのコメントに対してまた賛同のコメントと批判の声が上がっている。
 
 
結局、自分たちの派閥争いが起こっている。安倍政権を批判するか安倍政権を応援するかの二択。そして派閥争いをカモフラージュして正論と言わんばかり。政治の話をしているかのようで仲間集めゲームのよう。
 
 
どうしてこうも0か100の意見ばかりなのか、譲歩して50で落ち着こうとできないのか。と思ってしまう。派閥が大事か…まぁ大事か。大きい派閥が政治をする仕組みなのだから安倍政権で恩恵を受けている人達は自分たちの優位な生活を守るためのという姿勢を取るのも当たり前か、当然だな。なら国を良くしようというスタンスはやめていただきたい。
 

 

ただ僕が最も気持ち悪いと感じるのは町山さんのコメントの下にある「#ゆっくり休めよ安倍晋三」系のツイート。こういうおふざけ系が一番嫌いだ。河野大臣のエゴサにしろ小泉進次郎構文にしろ政治が面白いコンテンツになって消費されているのはいかがなものかと思う。なんも面白くない。もはや批判の声をかき消すために行われている彼らの作戦だと思える。
そして政治にそれほど関心のない層にも受け入れられてしまっている。国の大臣が訳の分からないことを言ってお茶を濁しているのを笑って終わり。エゴサがすごいのを笑って終わり。大臣ってなんだ?もちろん、僕は大臣を批判したいわけではない。ただ政治はネット特有の大喜利大会で終わっていいものではないと考える。
 
 
大喜利大会を楽しむ政治に関心のない層がちょっと政治をTwitterで覗けば派閥争いが起きているのだからそりゃ関心を持つはずがないと思う。強烈な愛国心を見てしまえば、政治に無関心の立場をとってしまうだろう。先程も述べたがTwitter上は0か100の意見ばかり、ライトな政治コンテンツというものが必要なのかもしれない。
 
 
そういう意味ではヒカキンさんと小池都知事の動画は良かったと思う。コロナ流行下でも派閥争いは続くためTwitter小池都知事、都政をどう評価するかというところにウエイトを置くものも多い。しかしヒカキンさんの動画は都政どうこうではなくてコロナというものに焦点を当てていたため見やすい動画だった。小池都知事といえば、会見で日刊ゲンダイの記者に痛いところを突かれる動画が話題になった。こういった国とオリンピックの関連についての核心を突いていくことは非常に大切だと思う。一方でコロナという命に関わる事柄に関してはいじわる抜きの情報発信の必要性も感じた。政治はSNSを通じてどのように無関心な方へのアプローチをしていくのかは注目である。
 
 
「#安倍辞めろ」が以前から話題になっているが、Twitterハッシュタグで辞職というのはありえない話である。(やらないよりはマシであるが)加えて菅官房長官安倍総理のうちで踊ろう動画に対して「過去最高のいいねをいただいた」と言ったらしい。すごい態度だ。やはり内閣を倒すにはアナログな方法だがデモが有効なのかと思う。第三次桂内閣の護憲運動ように運動を起こさなければならない。しかし、コロナ流行下では密集してデモを起こすことはできない。政治とSNSの真価が問われる。
 
 
 
 
 
 
 

#8 LINEってむずいな!!

 
LINEをすることが増えた。僕も友達もコロナ流行で外出ができず暇をしているからだろう。僕は基本、用件のない時にLINEをしないタイプの人間なので、普段LINEをすることは少ないのだが、この春休みは普段の倍くらいLINEをしているように感じる。(それでも他の人からすれば少ない方なのかもしれない)こうして普段に比べて多くLINEをしていると改めてLINEって難しいと思う。
 
 
当たり前のことだがLINEでの会話は顔が見えない。顔が見えないとボケの引き際がよくわからなくなる。僕は人と話すときは割とボケたい。ウケると何回でも被せたい。ただ人と話すときはボケていい時と悪い時がある。それは表情と場の雰囲気で察することができる。
しかしLINEではそれを察することが非常に難しい。ボケのつもりで言ったら「どういうこと?」って返されてしまうことが多々ある。じゃあボケなきゃいいのでは?と思うかもしれないがボケたいものはボケたいのである。ボケが浮かんだら言いたくなってしまう。そして、ボケようかやめておこうか悩んでいるうちにグループトークが進んでいってしまう。
 
 
ついでに言うとLINEの場合ウケているかどうかもわからない。よく文末で用いられる「(笑)、〜笑笑、www、^ ^」ほど笑っていないものはない。ときどきバクってしまったのか必ず「笑笑」をつける人がいるので何も信用できなくなってしまう。面白いこと何一つ言ってないのに「笑笑」がついて返ってくると僕は自信なくして怖くなっちゃうし、「笑笑」をつけて笑ってますよをアピールしてあげないといけないような接待を受ける側の人間になっていることに距離を感じて話しにくくなってしまうし、そもそも面と向かって喋っている時そんな笑わねーじゃんってツッコミたくなるし、そう言うと、おそらく返信は「ごめん笑笑」あるいは「そう?笑笑」だからメッセージの最後に「笑笑」つける文化は衰退していけばいいと思ったりもする。笑いは文字では伝わらないのだ。
 
 
やはり、LINEの難しいところは声ではなく文字で伝わってしまうところだと思う。文字になるとなんかキツそうなフレーズになってしまうこともある。そういうときこそ「笑笑」の使いどころなのだろう。ちなみに僕は語感が強くなってしまったら「^ ^」を使う派。
ただ「^ ^」によって圧が出ている気もするけど気にしないことにしている。
 
 
 
LINEというのはボケるのが難しいと書いたが、ツッコミも難しい。ツッコミは文字にするとわかりにくくなってしまう。例えば僕がツッコミをする場面で「欧米か」とツッコミをするとする。もう既に文字になっているから分かると思うがツッコミのスピード感が文字に乗っていないのだ。例えツッコミだから文脈に「欧米」はなぞられていない。するとツッコミを受ける側がこれをツッコミと汲み取ってくれないといけない、しかしなんせスピード感がないものだからこれをツッコミと認識してくれない。「欧米か…」と嘆いてるように取られることもあれば「欧米か?」と疑問に取られることもあり、結局「欧米ってどういうこと?」って返信がきて「ごめん、ツッコミ^ ^」と返す。「^ ^」がなければ耐えられない空気にしてしまう。
 
せめて「欧米か!!」とビックリマークでツッコミ感を演出するとこはできるが成功する確率は低いのでなるべくLINEでツッコミは控えるように心がけている。
 
 
 
LINEの難しいところを考えてみるといかにボケとツッコミが高等な話術かがわかる。やはり面と向かって喋ってボケてツッコんでの会話が楽しい。僕と相手だけが笑えるようなレベルの低い漫才のような会話が恋しくなってきた。友達に会いに行けるようになってほしいな。
 
 
 
 
 

#7 狭い僕の部屋

第7回目にしてネタ切れがおきました。ブロガー失格です。
 
普段は書こうと思うテーマがすっと浮かぶのですが今週は何にも浮かばない。だいたい水曜日くらいに「ブログ書かなきゃ」と焦りはじめてテーマを何本か用意して頭の中で1回書いて、一番良さそうものをブログにするのだが、今週はテーマすら浮かばず更新日である月曜日に至った。それも仕方のないことでなぜなら僕は家から外へ出ていない。ネタというものはお外に転がっているものでネタを拾いに行くことが許されていない今、ネタ切れは必然のことである。
 
 
「いやいやネタ切れなんていうのはお前のサボりだ」とうちのかわいいねこちゃんが言っているのでねこの言い分を聞いてみた。「お前はこの前Netflixに加入したよな、この前BOOK OFFへ行って手ぶらで帰ってこなかったよな。つまりお前はこのたくさんある時間を使ってさまざまなことをインプットしているはずだ。ならそれをブログを使ってアウトプットしてみてもいいんじゃないか、ニャ」と。じゃあ、そのかわいい肉球を駆使してブログを書いてみろよと言い返したかったが、さすがにねこ相手に大人気ないと思ってやめた。
 
 
家でできるインプットを考えてこの自宅の時間を過ごさなければならない。次はどのアニメや映画を観ようか。それにしてもキミはよく退屈に耐えられるね。

#6 正論に対する見解

 
今日、正論が溢れている。どうしてそんなに正しくありたいのか…もしかしたら正しくあることを要求されているからなのかもしれない。社会が正しいことが言える人間を求めているから、正論ばかりが蔓延っているのかもしれない。もっと暴論があってもいいと思うし論ずるだけなら自己中心的な論があってもいいと思う。わざわざ自分の意見を殺して正しいことを言うとこは必要ないのではと考える。
 
 
先日ワニが死んだ。ぼくは100日前からワニと生活してたわけではなく、ワニのことは最近知った。だから正直「へーこんな感じで終わるのね、なかなか面白い企画だね。おおー、すごい数のいいねが付いているなぁ」ぐらいしか思わなかった。で、ワニの商業臭にちょっと世間(Twitter)がざわついたのを知った。「ワニの死をもう少し味わいたかったが商業コンテンツになってしまって残念だ」みたいなコメントがあった。ワニにここまで思い入れがある人がたくさんいるなんてワニは幸せ者だなぁなんて感心したんだけど、世論は「作者はこれで飯食って行かなきゃいけないんだからブツブツ言うな」みたいなど正論。僕はまだ18だから僕の意見が正しいとは思わないけど、なんか違くねって思った。ワニをそのへんの絵の上手い兄ちゃんが100日かけて見せてくれた物語みたいに捉えていた人がたくさんいたんじゃないのかな。その待望の感動のラストの直前にわちゃわちゃ動かれたら、あれって思う人がいるのは当然なんじゃないかな。それをイラストレーターなんだから商売にして当然だ!みたいに正論で潰しちゃうのは僕は嫌だな。イラスト関係の人がお金を稼ぐことの大切さを説くことも必要だとは思う。というか絶対必要。でもそれはワニが死んで悲しんでいる人を殴るのには使ってはいけないと思う。だって正論だから。
 
正論は強い。じゃんけんでチョキ同士であいこが続いてる時に出されたグーみたいな逆らえない強さがある。じゃんけんで負けた場合、文句は言えない。正論は文句を言わせない。僕はチョキ同士であいこが何回も続いたっていいと思う。いわゆる持論vs持論にこそ面白みがあるのではないかと思う。(有事の時は正論でさっさと物事を進めることも必要なんだけどね)
 
 
もちろん作者には多くの人を楽しませたからお金は入るべきだとは思う。けれどワニの死を悲しむ人も尊重されてもいいと思う。
 
正論の出現で悲しんでいる人たちが正しいことを言っていたいだけの人に殴られてしまうのはなんとも残念で正論がグーであることを恨みたくなる。
 
 
 
またまた先日、Yahoo!知恵袋を見ていたらこんな質問があった。
 
「昨日学校で『お前の筆箱つまらない』と言われました。中身を書くので採点して下さい。(以下、筆箱の中身の紹介が続く…)」
なんとも学生らしい質問で僕も人の意見が妙に気になってしまう時期があったなぁなんて思った。(今その時期を抜けたとも言い切れないが…)
筆箱の中身を見つつ、詳しくペンの種類を書けている点や筆箱に万年筆が入っている点から投稿者が筆箱の中身に対してある程度のこだわりがあることはうかがえた。注釈にはペンのボディの色は青で統一していると書かれていたため、筆箱がカラフルでない点が友人につまらないと言われた原因かなと思いつつ僕は心の中で「70点!」と高得点をつけさせてもらった。
 
 
ページを下にスクロールし他の人の回答を見てみると「気にしなくていい」という回答ばかりだった。青色で統一されていることを指摘する人もいたが投稿者の「採点して下さい」に対して採点をいた人は1人もおらず、中には「うん?採点?筆箱なんてキミの好きにしなよ」みたいな鼻に付く回答も見られた。
 
 
「気にしなくていい」はド正論だと思う。本当にその通りだと思う。筆箱なんか人の言うことを気にせず自分の好きにしたらいい。だが、この正論を回答するのは違うと思う。言ってもいいがせめて採点ぐらいはしてから言うべきだと思う。だって投稿者は採点してほしいのだから。投稿者だって筆箱は自分の好きにするべきだとわかっていると思う。その上で何点ぐらいか知りたがっているのだと思うし、周りが気になって仕方がない思春期特有の感覚は皆経験があり、投稿者の気持ちを理解できると思う。それなのに質問を無視して正論を振りかざしていったい何がしたい?正しいことを言うだけが正しさでは無いと思う。
 
 
ワニにしろ知恵袋にしろ正論というグーで持論暴論のチョキに勝ちたがるのはいいがなものかと思ってしまう。そんなに正しいものにしがみついていないとダメなのか、正しいことが言えないとダメなのか…もしそうならほんとうにつまらない。もっと間違っていたいしもっと面白くありたい。正しいの裏側をちゃんと見ないといけないな。
 
このブログも「正論こそが正しいのだ!」みたいな正論の潰されてしまうかもしれない(潰されるほど見られてはいないんだけどね)「お前だって散々正論振り回してただろ」とかごもっともなことも言われるかも…そしたら僕は何も言えなくなっちゃうなぁ。ごめんなさいだな。こういうのって難しいね、でも難しいさに面白さを感じているからまだまだ希望はあるのかもしれない。
 
 
 
 
 
 

#5 万年筆を持つ


 
僕はノートを取るときにペンを使うのが好きだ。消しゴムが使えないという緊張感がある方が暗記しやすいのではないかという浅い考えと、シャーペンは手汗とかで汚れてノートがいい状態に保てないという理由から僕はペンでノートを取っていた。もちろん、ペンの方が高価なので見返す気のないノートとかはシャーペンで書いていたが。
 
 
高校に入る前からシャーペンポジションのペンはuni-ballのsigno のブルーブラックの0.38を使っていた。文字通り青と黒の中間のような色のブルーブラックが好きだった。まるで万年筆でノートをとっているかのような高級感が出るのがたまらなかった。
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「なら、万年筆を使えばよくね?」
 
 
気づいたのが去年だった。
 
しかし、去年は何か新しいことを始めるというか万年筆をじっくり選ぶ勇気がなかったわけで(今考えれば買うぐらいの時間はあったなぁ)今頃になっての購入になった。長い時間がかかってしまった…
 
 
しっかりと下調べをした末にpilotのcocoonという万年筆を買った。もちろんインクも、pilotの色彩雫というシリーズから「月夜」を。50mlで1500円という圧にうろたえながら購入した。月夜はブルーブラックに少し緑を足したような味わい深い色だ。色彩雫シリーズだけで24色あり、インク沼にハマった人の財布を想像すると恐ろしい、インクなんて色彩雫シリーズ以外にもいくらでもあるそうだし。
 
 
うきうきで家に帰り万年筆を開け、コンバーター(吸引機)を装着しペン先を月夜の瓶に入れる。月夜がペンに吸い込まれる瞬間の高揚感は忘れられない。余分なインクを拭き取り、
拭き取りに使った布に染みた月夜を見てやっぱ綺麗だなぁとか思いながら。万年筆デビューをキメる。驚きほど滑らかにペンが紙の上を動く。軽い力でスーッと線が引ける、しかも美しい色で。これが僕が1年以上求めていた世界、宇宙だったのだろう。いい買い物したなぁ。
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しばらく万年筆で使ってみて気づいたのだか、万年筆は思ったよりも使いやすい。ボールペンよりも力を抜かなければならず、はじめは慣れるのに苦労するみたいなことを聞いていたが別に苦労はしなかった。もちろん僕の買った万年筆は比較的安価の初心者用のもので、デパートのショーケースに飾られているような桁の違う世界の万年筆はもっと使いにくく、クセがすごいのかもしれない。その点が少し残念だった。
 
 
僕は万年筆の「不便さ」に少し憧れがあった。この便利な時代に不便な筆記具を使いたかった。ずっと使っていたsignoは大変便利な筆記具である。インクの交換も簡単だし、買うのも捨てるのも一瞬だ。Signo は好きだけど、今使っているsignoにはそんなに愛着があるわけでもない。そういう付き合いから抜け出してみたかったのだ。手を汚しながらインクを入れペン先に弾かれながら僕と万年筆が時間をかけて分かり合えるようになっていく。そんな付き合いをしてみたかった。
 
 
僕はこの万年筆でメモなりノートなりポエムなりイラストなりラブレターなり様々なものを書いていくだろう。月夜はまだたくさん瓶の中にあるし、長い時間をかけてお互いを深め合っていくつもりだ。少しだけ不便なインク交換をして別の色の浮気をするかもしれないし、新しい出会いを求めてショーケースのに手を伸ばすかもしれない。そのときまでに一体僕たちはどのくらい絆を深めることができるだろうか。楽しみで仕方がない。
 
 
 
 

#4 承認欲求とねこ


 Twitterをしていると「いいね」が欲しいときがある。もちろんTwitterなんて常に「いいね」が欲しいと思いながらやっているわけだが、どうしても「いいね」がたくさん欲しくなってしまうときがある。そういう時は大抵、精神がちょっと異常なときだ。
 
 
精神が異常なときは僕は「〇〇が辛い」「〇〇したくない」などのネガティブなツイートをしてしまう。自分の置かれている状況を伝えて可哀想だと思われたいと考えてしまう。
 
そしてこのネガティブツイートが全く「いいね」をされない。
 
おそらく「いいね」にはいくつかの役割が隠れていると考える。ツイートを見たことを伝える『既読』。ツイートに納得したことを伝える『同意』。あとでもう一度見返すときのための『保存』。といったところだろうか、少なくとも僕が「いいね」をする基準は大きくこの3つだ。
 
ではこの3つはネガティブツイートを「いいね」する基準になるだろうか。もちろん答えはノーだ。ネガティブツイートに既読をしたくない。既読したところで何もいいことはない。触らぬ神に祟りなしだ。同意はリスクがある。「いいね」は文字通りいいねだ。「〇〇が辛い」というツイートに対して「いいね」をすれば「辛そうでいいね」と不幸を喜んでいるような解釈をされてしまうかもしれない。しかもTwitterの「いいね」はピンクのハートだ。この記号は同情のニュアンスを含まない。ネガティブツイートにはふさわしくない。
保存もしたくない。人の辛い状況などはおおよそどうでもいい。「どうでもいいね」があれば押すかもしれないがTwitterにあるのはピンクのハートの「いいね」だけだ。
 
 
と、このようにネガティブツイートにいいねが付かない理由を分析できる。にもかかわらず僕はネガティブツイートをなぜしてしまうのだろう…なんておバカさんなんだろう。今日は精神が正常なのでもうすこし分析をしてみると
 
辛い(自己肯定感が低下する)→自己肯定感の低下により孤独を感じる→Twitterという知り合いがいる空間に逃げ承認欲求が芽生え低下した自己肯定感を元に戻そうとする→辛い状況を伝えて承認欲求を満たそうとする→満たされない
 
といった流れがあると考えられる。なんか哀れだなぁ人間って結構ちっちゃいなぁって書きながら思った。だが、この流れのままだと自己肯定感が低いままで終わってしまう。「いいね」が欲しくても貰えずまた「いいね」目当てのネガティブツイートをして…と繰り返してしまう。僕はこの負の連鎖に陥りそうなとき少し頭を使ってねこの写真を投稿する。
 
なんと悲しい自白だろう。もちろん本当にねこの可愛い写真が撮れて、このかわいさを共有したくて投稿することも多々ある。その一方で承認欲求を満たしたくてなんの面白味もないねこの写真を投稿したことも恥ずかしながらある。ねこは承認欲求を満たすには非常に便利である。すぐ「いいね」が付く。なんならフォロワーではない人からの「いいね」が来ることもある。これで僕の異常な精神は満たされる。プライドは無いのかと疑問に思う人がいるかもしれないが、無いのである。そもそもTwitterの「いいね」という虚構の無価値な記号を求めてしまうときにプライドなどはねこのひたい程度も無いのである。
 
ちなみに僕はねこで承認欲求を満たすことは悪いことだとは思はない(非常にしょーもないことだとは思っているが…)ねこはかわいい。人を幸福にする力を持っている。実にwin-winな関係が生じていると考える。
 
この衝撃の自白ブログ(見透かされていたかもしれないが…)は自戒の意を込めて書かれ投稿されている。ネガティブツイートをしても満たされないクソみたいな承認欲求にねこを使うな!と強く自分に言い聞かせている。これからは本当にかわいいねこの写真だけを投稿し自分に自信を持って生きていきたい。
 

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